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日本語・日本文学科

卒業生 佐藤絵利子

 大学に入ってから、たくさんのことを考えていた。だけど、考えていることをどう整理すればいいのかわからなかった。 「生涯学習論」の講義で忘れられない言葉に出会った。「教えられなくとも学ぶことがある。教えられてこそ学ぶこともある」。私にとって、「教えられなくとも学ぶこと」は家族のこと、「教えられてこそ学ぶこと」は知識のことだと思った。

 家族という存在は教えられなくとも学ぶことができる。家族から離れて一人暮らしをして初めて、家族のありがたみを実感した。今までうるさいと思い、早く一人暮らしをしたいと思っていたのに、食事の支度や洗い物は想像以上に大変で、一人になると物足りなく、さびしくなった。知識、教えられてこそ学ぶこともある。「日本語学」の講義で"漢字"は外来語・借用語なのに日本人の生活に密着していると聞いて、深く考えず気にも留めなければ違和感すら感じないようなことにもすべて背景があることを知った。

 「教えられなくとも学ぶこと、教えられてこそ学ぶこと」の二つは今の私には別々だけど、それが"表裏一体"になるように大学生活を送りたい。

卒業生 千葉 綾

 何かに縛られている。そんな気はしませんか? それは『親』だったり『学校』だったり『高校生』という職業[モノ]だったり。「何故、それ以上を求めてはいけないのだろうか?」。いつも解決した気分になれませんでした。今はわかります。私がたくさんの物事に縛られていたからです。  大学生からは違います。家族を離れて知らない土地での一人暮らし、専門性を追求する講義。誰も「ヤメロ」とも「シロ」とも言いません。やりたいことを突きつめ、知らなかったことに挑戦することができるようになりました。いままで厳しく抑えつけてられてきたものから開放され、自由になりました。

 いま私は、少人数制の演習講義で「人間の五感」を取り上げ、アイマスクをかけて文字を書いたり周りの音を聞いたり、実験をしています。例えば、アイマスクで漢字一文字を書くとき、眼で見たときより大きくなると思いますか、小さくなると思いますか。このような疑問に挑戦するチャンスが大学にはあるのです。

卒業生 種市 洋平

 弘前学院大学は、ゼミ形式の授業が多い大学です。
 ゼミというのは、高校までに経験する「先生が黒板の前に立って生徒に授業する」という一方通行の授業形式ではありません。ゼミでは、学生と先生が相互方向で入り乱れます。学生も先生も関係ありません。黒板の前で話すのは学生ですから、先生も学生と同じ机に座ります。

 ゼミは、学生が自分で調べてまとめてきたことをゼミメンバーの前で発表するという形式で進みます。例えば、私は「好きなライトノベル作品」について、「このキャラはマザコンなのさ」、「格好良いけどニートなのでね」、とか好き勝手に話します。ほとんどの場合、「ここの説明がわからない」、「その考えは変だ」、とメンバーからきびしいツッコミが飛んできます。メンバーからひとつも反応がないときは発表がさえないときで、こういうときは、不気味な沈黙のため気まずい雰囲気になり、どうしようと頭を抱えます。逆に、いい発表のときは、質問と応答で激しい応酬になり、授業中かと思うほど会話が弾みます。笑いも起こります。冗談を飛ばしたところで先生は止めません。先生も冗談を言います。

 このゼミほどやりがいのある授業はありません。何しろ、授業の内容を生徒である自分が決められるのですから、好きなだけ趣味に走れます。もちろん、参加するゼミによってある程度内容が縛られはしますが。高校まで、学生が「今日の授業では私の好きな小説についてお話しします」とか、「東京の電車内で津軽弁を話す人はどのくらいいるのか調べる」とか、そのような授業は少ないと思います。だから、そのやり方を必死に学びます。何故って、発表に失敗するとメンバーたちから不気味な沈黙というツライ仕打ちを受けますから。また、メンバーの前で発表する、という緊張感も初めのうちは恐いものがあります。みな、じぃ?ッと見つめてきます。私も初めて発表したときは声が震えました。いまは大丈夫です。

 自分が好きなこと、興味あることを、顕微鏡や望遠鏡でアレコレ見回し、何故これが好きなのか、何故これに興味があるのか、とことんつきつめ、その答えを自力で探し出す。そして、その答えを皆に冷たい目で見られぬよう、上手に発表する力をつける。これが、大学で学ぶ意味と思います。  さて、みなさん、会社に就職したとき、会議で社長に褒められるような発表、できますヨ。

学生からのメッセージ
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